「影響」という言葉から見た推しとファンの違い
のりさらだです。
今回もまた、推しとファンの言葉の違いについて考察してみたいと思う。
前回の記事でも貼ったこちらのnoteを何度か読んでいたら、なんか引っかかるものを覚えた。
>このnoteには、なぜ「推し」という言葉が生まれて、「推す」という行為が力を持っていったのかが明確に書かれていてとても分かりやすかった。
と書いたんだけど、
抜き書きーーーーーー
AKB48の大人数制によって、オタクが強制的にプロデューサーの立ち位置に立たされたからだ。
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毎日のその子のことを考えていても、その子はテレビに映らない。そういったことが起こるようになる。けれど、「推せば」話は変わるのである。私がたくさん布教して、私がたくさん握手会に行って、私がたくさんお金を使えば、あの子は選抜に入れるかもしれない。
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こうして、オタクの頑張り、もとい「推し」に捧げた行動とお金が、「推し」の立ち位置に明確に反映されるようになる。「推し」は単なる名称から行為を含有するものとなる。「推す・推される」という関係性が、オタクとアイドルの関係になる。オタクが決定権の一部を持ち始めるのだ。
ーーーーーーここまで
の部分で思うのは、「推し行為」が反映される「システム」ができたということを意味しているのだと思った。
つまり、推しという行為はシステムありきで初めて成り立つということで、そのシステムがなければ推しという言葉の実体としては、ファンとなんら変わりは無いということなのである。
「推し」という言葉を使う限り、「ファン」よりも対象側に何かしらの影響を与えることができるような錯覚に陥るけど、システムという実体が無ければそれはただの幻想でしかない。
ファンというかオタクの行為が実際の運営に「影響する」とか…非常に政治的だなということも考えた。だから「選挙」という言葉もあったんだろうと思う。
ところで、このnoteの文脈に沿って言葉を使うけど、
「ファン」という言葉は、オタク側を指しているのに、影響力としてはさほどないから?主体としてはアイドル側なのに対し、
「推し」という言葉は、アイドル側を示しているのに、(システムが存在すれば)影響力があって、主体はオタク側、
と真逆の意味になっているのは、非常に面白いなと思ったりした。
考察終わり。
「推し」という言葉の意味と「ファン」との違い
のりさらだです。
今回は「推し」という言葉の意味と「ファン」との違いについて、書いていこうと思う。
自分にも以前は「推し」と呼べるような存在があって、ある出来事をキッカケに嫌いになってそのビジュアルも見たくないほどになったことがあった。アーティストで音楽家なので楽曲は聴き続けていたけど。
今はだいぶ回復?してきて、普通にビジュアルも見れるようになってきたけど、以前のような位置、いわゆる「推し」と呼べるような所にまで気持ちを持っていかないようにしている自分がいる。「ファン」の位置で留めておくというのか。
何でだろうなと思っていたけど、以下のお二方のツイートを読んでなんとなく納得できたような気持ちになった。
でも最初は、恋愛みたいになってその人の一挙手一投足に自分の感情が一喜一憂してしまってそれが嫌だったから、なんだけど、もっと耳障りのいい、自分でも「納得」しやすいような言葉を見つけてしまったということなのかもしれないけど。
いまいち推しという概念がよくわからない。ファンでいいじゃん、と思ってたのだが、考えてみるとたぶん、ファンの場合は主体はアイドル等の対象の方で、押しと言うと主体がファンの方になる。だから、推しというのは、自分がその対象を支えて「やって」いるという感じがあるのだろうか。
— 千葉雅也『オーバーヒート』発売 (@masayachiba) July 21, 2021
fan=fanatic、熱狂的な、ってあくまでも訪れを受け止める受動性に焦点が合ってるけど、推しって言う言葉には、(自分が)推す、という意味が強いよね。
— 来 (@69cheshirecat96) July 23, 2021
対象に振り向いてもらえなくても、支えているのは「俺」、金を使うのは「僕」、愛しているのは「私」。
個の時代ねぇ、なんて思って眺めているけど。
あと、上記を検索しているときにこんなnoteも見つけた。
このnoteにはなぜ「推し」という言葉が生まれて、「推す」という行為が力を持っていったのかが明確に書かれていてとても分かりやすかった。ありがとうございます。
自分が好きなのは「アイドル」ではないんだけど…
抜き書きーーーーーー
もちろん、「推し」という言葉が、今のアイドルオタク界隈でもっとフランクに使われている用語だということはわかっている。それどころか、アイドル界隈を超えて「推し」は一般化した。特定の誰かを応援することは今や「推し」と称される。推しメン、推し作家、推し漫画。けれど、「推し」は、オタクやファンといった語より多くのものを内包しているのではないだろうか。
ーーーーーーここまで
の文章で、好きになってハマって誰かを応援するという行為自体が、もう「推し」という言葉になってしまっているんだなと感じた。
でも、最近自分のファンの対象の人ではないんだけど、あるミュージシャンのサブスクで「消音再生」をして、寝ている間でも仕事中でもサブスクの再生回数を上げられる方法を推奨している人がいるらしくて、サブスクの再生回数が多ければそれだけそのミュージシャンの人にお金が入る訳だからそれで推奨してるという理屈なんだけど、
「消音再生」なワケだからせっかく作った楽曲は、その間誰にも聴かれることはない訳で…。
ものすごい本末転倒だということで問題に思う人も少なくない。
ただそれも上記のツイートの
>自分がその対象を支えて「やって」いるという感じがある
>対象に振り向いてもらえなくても、支えているのは「俺」、金を使うのは「僕」、愛しているのは「私」
という言葉の意味を考えると、何が何でも推せればよいっていう感じなのかなとか思ったりした。
自分も他にファンブログみたいなものを持っているので、こういう内容はそっちで書いた方がいいかもとも思ったんだけど、なんか最近変に影響があるように思える感じになってきてしまって、色々と書きにくくなっているような気持ちがあるので、こちらにこそっと書いておくことにする。
あと、自分に見えている世界は(自分にとっては)間違ってないとは思うけど、それが他の誰にでも正しいものではない、ということを忘れないようにしようとも思う。とある人の受け売りだけど。
恋愛志向と性的志向の話
のりさらだです。
今回は、恋愛志向と性的志向の話を書いていきます。
以前、anoneのサイトでLGBTQ+の診断をした時、L(レズビアン)、G(ゲイ)、B(バイセクシャル)以外の恋愛志向と性的志向があることを知った。
自分の診断結果からは
・デミロマンティックー強い信頼関係で恋に落ちる
・サピオセクシャルー知性を愛する
の2つが出てきた。
他にも「リスロマンティックー恋に両思いはいらない」とか「アセクシャルー愛に体のつながりはいらない」など色々なものがあったけど、その他のことは割愛する。キリがないので。
そんで、「ーーロマンティック」と「ーーセクシャル」の言葉の違いは前者が恋愛志向、後者が性的志向ということらしい。
話を戻して、自分が傾向があるという「デミロマンティック」と「サピオセクシャル」
解説を少し抜き書きするとこんな感じ。
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「デミロマンティック」
強い信頼関係で恋に落ちる。それがデミロマンティックです。 「強い絆ってどういうこと?」って思う人も少なくないはず。 デミロマンティックは、普段は恋愛感情があまりなく、誰かのことを深く深く知った時に初めて「あ、この人のこと好きかも!」となるセクシュアリティなんです。
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デミロマンティックのあなたはとにかく一目惚れすることがほとんどない、あるいはまったくないと思います。 周りはすれ違いざまにあった人を見て「あの人めっちゃよくない?」なんて言っているなか 「初対面でいいって思えるってどういうこと…?」と不思議に感じていることが多いのではないでしょうか。
「サピオセクシャル」
知性にひかれる。それがこのサピオセクシュアルです。頭のキレる一面を見たときに思わずセクシーさを感じてしまうことってありませんか? 会話の中での言葉選びやジョーク、はたまた文章なんかにもグッときてしまう人もいるんです。
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また、サピオセクシュアルは相手のバックグラウンドに惹かれていることも。 ただ「この人頭がいい!好き!」ではなく、いろんな経緯があってその人の知性がつくられてきたのだとわかって初めて恋に落ちていくことはありませんか?
ーーーーーーここまで
2つとも今までの人生の中で凄い心当たりがあるものだった。今いる大切な人は数奇な縁があって結構長いんだけど、それ以外の人ではなかなか恋愛感情を持てなかったり、そういうのを育むとかできなかったりしてたので自分がおかしいのかなと思っていた時もあった。
この大切なな人がいるおかげで他の人なんて考えられないし、出会えて良かったなと思っている。
サピオセクシャルの方も、男女問わず頭のいい面が見えると惹かれている自分がいて、何となく頭のいい人が好きな傾向があるんだなと思っていたけどそういうのにも名前があることにちょっと驚いた。
LGBTQ+以外の恋愛志向や性的志向も知ることができたので、もしそういうので悩んでいる人がいたら、どんどん活用するのはおススメです。
オリンピックとLGBTQ+
のりさらだです。
もうすぐオリンピックが始まるので、オリンピックとLGBTQ+の関連について書いていこうと思います。
元々このブログを書こうと思ったキッカケになったのは、この方のこのツイートを読んだからだった。
本当はシェアするのも嫌なのですが、読んでみてください。自民党という党は、こういう体質を孕んだ組織だし、その結果として、今の政権が出来上がっている。俺は絶対に許さないし、どうか次の選挙では参考にしてほしい。控えめに言って、怒りがおさまらない。https://t.co/RQVAEBjOZx pic.twitter.com/2GemiYSBFA
— 牧野圭太 | DE (@MAKINO1121) May 20, 2021
少し前の記事なのでリンク先はもう消えているのだけど、自分が注目したのは青線の所ではなくて、山谷えり子参院議員の言葉の方だった。
「女子の競技に男性の身体で、心が女性だからといって競技参加して、いろいろメダルを取ったり、そういう不条理なこともあるので少し慎重に。社会運動化・政治運動化されると、いろんな副作用もあるんじゃないでしょうか」
自分も以前そういうニュースを家族から聞いて疑問に思っていたことを思い出した。自分が聞いたのは、陸上の選手で生粋の(っていう言い方は適切ではないのかもしれないが)女性の選手からは批判があったという話だった。
トランスジェンダーの女性選手は「女性スポーツ」で競技してもいいのか | 東京五輪ではどうなる? | クーリエ・ジャポン
最初聞いた時は正直いって、体が男性ならいくら性自認が女性でも男性の競技に参加させるべきじゃないのか?って思っていたんだけど、下記のページを読んでみると、そう話は簡単じゃないらしいことが分かってきた。
自分もそうだけど、世間一般的には特定の性器があるかどうかで男女を決めているような感じがしている。でも人間の体はそんな簡単に男女の枠にはめられるようなものではないらしいということがよく分かった気がする。
でもそれで…シスジェンダーの女性選手がわりを食うのもちょっと違う気もするし、難しい問題だなと思う。
意味を問うとは、理由を問うことにも繋がるのかも
のりさらだです。
先日こんなツイートを見つけて色々考えさせられた。
リンクを張らないがが宇多田ヒカルの自分は「ノンバイナリー」であるという発言について「マジョリティへの差別」だとか、「本当に差別を受け苦しんでいる人の主張がただの承認欲求を満たすだけの主張にかき消されてしまう可能性もある。」と書いてる記事を読み、げんなりする。→
— 栗田 隆子_オリンピック反対 (@kuriryuofficial) July 7, 2021
そのことと宇多田ヒカルに対して、彼女の社会的地位においてその発言をすることによっていったい何をどうしたいと考えているのか?マイノリティのコミュニティに何か還元したいと考えているのか?等々と問うこととはまた別だと思う。
— 栗田 隆子_オリンピック反対 (@kuriryuofficial) July 7, 2021
宇多田ヒカルに対して問う、というの場合は、その時自分が何者として問うのか、という立ち位置も重要になってくるだろう。
— 栗田 隆子_オリンピック反対 (@kuriryuofficial) July 7, 2021
題名にも書いたけど、最初に書いてる記事が問うているのは、宇多田ヒカルさんがこの発言をした意味というか理由を知りたいということなんじゃないか?と考えた。
例えば自分の例で書くなら、こんなブログを立ち上げて自分のセクシャリティを公表する理由を、自分は「私の勝手」であると書いたけど、これを自分の大切な人が実は体は女だけど中身は男性のトランスジェンダーの人で、性的違和感も強くて、私は『彼』のことをその女性の体も含めて好きだけど、そういうので苦しんでるのを少しでも分かりたくて、このブログを書いて理解しようとしました、としたらどうだろう?
読む人は、理由や行動の根拠が分かってすっきりするんだろうなと思う。全部作り話だけど。
つまり、情報を公開するなら包み隠さず全部話せ、ということを求められているんじゃないだろうかと考えた。というか、受け取る側が少しでも無知になる部分があることを許容できないというか、情報が溢れているからその情報がないことに対して我慢できないという状態になっているのではないかと考えた。
ただ公開できるところだけ言いたくなったから言う、だけじゃダメなんかな?とか思ったりもした。
尻切れトンボ感もあるけど、終わり。
ブログ名を変更しました
のりさらだです。
ブログ名を変更することにしました。
理由は、書けることがなくなったから。ほんとは最初からあまりなかったんだけど、見切り発車で始めて行き詰まったので変えることにしました。
新しいブログ名は、「意味いみイミ研究室」にします。
先日こちらの方の記事を見つけました。
そして、この記事の中に出てくるドラマの「今ここにある危機とぼくの好感度について」の脚本家渡辺あや氏のコメントを少し抜粋します。
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いつからか「意味」のコスパの悪さに、私たちは気付いてしまいました。
それでもそれを愛する者として、やはり言葉には意味というハートと共にあってほしいし、そうある時の美しさや豊かさを、これからも描いてゆきたいと思っています。
ーーーーーーここまで
最初これを読んだ時に、意味の「コスパの悪さ」って何?と思ってそれこそ意味がよく分からなかった。
それを言うことの意味ってあるのか?って思うし…それ言うんだったら、人間が生きることが1番コスパ悪いでしょ、とか思うし。意味にコスパの悪さを問うのは、人間が生きることにコスパの悪さを問うのと同じレベルで意味がないことなんではないかと?と自分は考えるので。
でも、上の記事の「嫌われる」という言葉で…なんか少し分かった気がした。
意味について
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【意味(い‐み)】
1 言葉が示す内容。また、言葉がある物事を示すこと。「単語の意味を調べる」「愛を意味するギリシャ語」
2 ある表現・行為によって示され、あるいはそこに含み隠されている内容。また、表現・行為がある内容を示すこと。「慰労の意味で一席設ける」「意味ありげな行動」「沈黙は賛成を意味する」
3 価値。重要性。「意味のある集会」「全員が参加しなければ意味がない」
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そして思ったんだけど、意味が嫌われる要因として「意味がある=価値がある」ということも一つ挙げられるんじゃないかなあってことも考えた。
3で価値。重要性。があるにはあるけど。
ここで言っている「価値がある」はマウンティングとして使えるとか、人より自分の方が価値がある立場?に立てるとか、そういう意味に近いのかもしれないです。
手前味噌だけど、前回の記事で
>あと前回の記事を書いて思ったのは、自分は性的違和がかなり少ない方だと思うので性的違和が強い人の気持ちは正直言って全然分からないということです。
>それは、LGBTQ+であっても特に困っていないということでもあり、わざわざ表明することでもなかったのかもしれません。
>それでも少しでも理解したかったというと…失礼になるのかなとも考えてしまって、このブログを書いたことは余計なことだったのかもしれません。
ということを書いたんだけど、自分の中で思っていたのは、性的違和が少ない自分がLGBTQ+のことを書くのは意味がないことなのでは?ということで、
性的違和が強い人が書くのは、意味があり価値がある、という風になってしまっているなぁということでした。
なんかそれもちょっと違うんじゃないかなぁと思って、視点を変える意味も込めて、ブログ名を変更して再出発することにしました。
余計なことだったかもしれない
のりさらだです。
前回 Xジェンダーについて書いたんですが、自分の立ち位置からしか言えないので他のLGBTQ+のことについては割愛します。
あと前回の記事を書いて思ったのは、自分は性的違和がかなり少ない方だと思うので性的違和が強い人の気持ちは正直言って全然分からないということです。
それは、LGBTQ+であっても特に困っていないということでもあり、わざわざ表明することでもなかったのかもしれません。
それでも少しでも理解したかったというと…失礼になるのかなとも考えてしまって、このブログを書いたことは余計なことだったのかもしれません。
少し前ですが、こちらのツイートが参考になったので載せておきます。
立場が違う人や自分が全く経験したことのない困難や特性を持った人に出会った時に、いちいち自分の身に置き換えなくていいんだよな。「自分だったらこうする」とつい考えてしまうが、全容を知らないんだから意味がない。理解不能の場合むしろ余計なことを言わないことが一番の助けになるのかもしれない
— 高知東生 (@noborutakachi) May 27, 2021
でも実際には書いてみないと分からないので、ここまで書いてよかったのかなとも思いました。
週一回のペースで書き続けてきましたが、今後は不定期更新にしていこうと思います。