意味を問うとは、理由を問うことにも繋がるのかも
のりさらだです。
先日こんなツイートを見つけて色々考えさせられた。
リンクを張らないがが宇多田ヒカルの自分は「ノンバイナリー」であるという発言について「マジョリティへの差別」だとか、「本当に差別を受け苦しんでいる人の主張がただの承認欲求を満たすだけの主張にかき消されてしまう可能性もある。」と書いてる記事を読み、げんなりする。→
— 栗田 隆子_オリンピック反対 (@kuriryuofficial) July 7, 2021
そのことと宇多田ヒカルに対して、彼女の社会的地位においてその発言をすることによっていったい何をどうしたいと考えているのか?マイノリティのコミュニティに何か還元したいと考えているのか?等々と問うこととはまた別だと思う。
— 栗田 隆子_オリンピック反対 (@kuriryuofficial) July 7, 2021
宇多田ヒカルに対して問う、というの場合は、その時自分が何者として問うのか、という立ち位置も重要になってくるだろう。
— 栗田 隆子_オリンピック反対 (@kuriryuofficial) July 7, 2021
題名にも書いたけど、最初に書いてる記事が問うているのは、宇多田ヒカルさんがこの発言をした意味というか理由を知りたいということなんじゃないか?と考えた。
例えば自分の例で書くなら、こんなブログを立ち上げて自分のセクシャリティを公表する理由を、自分は「私の勝手」であると書いたけど、これを自分の大切な人が実は体は女だけど中身は男性のトランスジェンダーの人で、性的違和感も強くて、私は『彼』のことをその女性の体も含めて好きだけど、そういうので苦しんでるのを少しでも分かりたくて、このブログを書いて理解しようとしました、としたらどうだろう?
読む人は、理由や行動の根拠が分かってすっきりするんだろうなと思う。全部作り話だけど。
つまり、情報を公開するなら包み隠さず全部話せ、ということを求められているんじゃないだろうかと考えた。というか、受け取る側が少しでも無知になる部分があることを許容できないというか、情報が溢れているからその情報がないことに対して我慢できないという状態になっているのではないかと考えた。
ただ公開できるところだけ言いたくなったから言う、だけじゃダメなんかな?とか思ったりもした。
尻切れトンボ感もあるけど、終わり。